2006年5月23日火曜日

盛岡で考えた 「小沢一郎の小沢一郎的こころ」


























水曜日から、盛岡、秋田と東北出張に入りました。盛岡は初めてでしたが、新幹線では東京から二時間半と以外に近いのには驚きました。ここ岩手の水沢は、民主党党首、小沢一郎氏のお膝元であります。

かつては「豪腕、壊し屋」と呼ばれ、強面の印象の強かった小沢氏ですが、先日の代表選投票前の演説で、巨匠 ルキノ・ヴィスコンティの大作
「山猫」から、バート・ランカスター演じる主人公のサリーナ公爵の「現状を保つには変わるしかない」の科白を引用し、「明日のため、子供たちのため、私自身を、民主党を改革しなければならない。まず私自身が変わらなければならない」と締めくくったそうだ。その瞬間、場内に流れていた空気が一変し、代表戦に圧勝したことはご存知の通り。その後、マスメディアでは「小沢神話の復活か」といった論調が目立つが、そもそもこの「山猫発言」の文脈にはいささか釈然としない点も多々あるのです。

その前に、この映画史上に燦然と輝く大傑作の要旨をまとめてみましょう。
1860年5月、統一戦争に揺れるイタリア。祖国統一と腐敗した貴族支配からの解放を叫ぶガリバルディと彼の率いる赤シャツ隊がシチリア島にも上陸。歴史は大きく動き始めた。シチリアを数十代に渡って統治してきた山猫の紋章の名門サリーナ公爵家にもその波は押し寄せていた。当主であるドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)は否が応なく訪れた新しい時代の到来に選択を迫られる。一分のプライドも捨てず、気高く生きていくのか、それとも、、。一方、公爵が息子たちよりも目をかけている甥のタンクレディ(アラン・ドロン)は革命軍に参加し、時代の変化に機敏に適応していた。そして、タンクレディは公爵家で催された晩餐会で新興ブルジョワジーの絶世の美女アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)と出会い、恋に落ちる。
そして、国民投票が行われ、シチリアも統一イタリア王国となった。身分違いの恋ながら、没落貴族と新興ブルジョワジーとの新時代の結び付きの必要性を認めたサリーナの計らいで二人は婚約へとこぎつける。
婚約発表の大舞踏会でアンジェリカは社交界デビューを果たす。はちきれんばかりの美しさのアンジェリカの誘いでサリーナ公爵は一緒にワルツを踊る。この流麗なダンスこそが新しい時代の幕開けを告げるものであり、彼の役目が終わった時でもあった…  チャンチャン。(山猫HP要約)

小沢氏は、どこでどう間違えたのか分からないが、
「現状を保つには変わるしかない」というセリフは、そもそもサリーナ公爵のセリフではなく、甥っ子のタンクレディのセリフである。そもそも、小沢氏が自らを体制側のサリーナ公爵に擬えるのも合点がいかない。自らの栄達のために、新興ブルジョアジーと結婚したタンクレディになら分かるのですが、、、、、、(関係ないが、アロン・ドロンと小沢氏、、ルックスは随分と違うと思う)

小沢氏の政治家としての経歴も、派閥の論理の中で、田中、竹下、金丸と従うボスを替え、新党結成後は、キングメーカーとしてそれなりの存在感はありましたが、、もしかして、小沢氏は自らを守旧派の中心として自分の立ち位置を考えていたとしたら、この「山猫発言」は理解できなくも無いが、、、

この「山猫発言」にマスコミ各社が飛びつき、トンチンカンな議論が繰り広げられたが、日経新聞のコラム「大機小機」では、珍しく辛口の意見が紹介されてます。以下はその引用です。





小沢民主党が千葉補選で最初の勝利を得た。しかし、これを「小泉政権の行き過ぎた構造改革が格差を生んだ」というマスコミの風潮に乗ったおかげと考えると、政権への道は遠いものとなる。

そもそも構造改革がどのようなメカニズムで格差の拡大をもたらすのかという論理自体が明確ではない。規制緩和は貿易自由化と同様に、従来、保護されてきた集団の既得権を失わせ、それ以上に大きな利益を消費者に与える。戦後の日本経済が自由貿易によって発展し、同時に平等な社会を形成してきたことを疑う者はいない。それにもかかわらず、市場競争を促す構造改革が格差拡大の当然の原因と言うのは矛盾でしかない。

一九九〇年代半ば以降の低所得層の増加は、むしろ経済社会環境の変化に対応しない過去の制度・慣行に基づいた長期の経済停滞による面が大きい。その結果生じた雇用機会減少の影響が特に新卒市場の若年層に大きく現れている。格差の固定化に結びつかないためには、新しい雇用需要をつくり出す経済活性化や労働市場の効率化が求められる。それには規制によって保護されている集団の既得権をさらに打破するしかない。

日本の政治の不幸は、与党と野党が共に党内に改革派と反動派を抱え込んでいる「ねじれ現象」にあり、国民に選択の権利が乏しいことである。現在の民主党の首脳部には小沢代表をはじめ旧自民党の改革派が多い。そうした人々が、選挙に勝つために、改革よりも雇用維持を重視する労働組合の利益を代表する党内左派や、果ては確信犯的な既得権擁護の国民新党とまで手を結び、安易な「格差社会」批判の時流に乗るとすれば悲劇である。一時的に小泉改革への批判票は確保できても、構造改革に期待する国民の持続的な支持は得られない。

前原前代表は、小泉政権の構造改革では不十分であり、既得権とのしがらみが少ない民主党でなければ、真の構造改革は実現できないと主張してきた。偽メール事件で自爆しても、本来の小泉政権との「改革競争」という路線は決して間違っていなかった。小泉総理の退陣後に自民党内での反改革勢力が復活しようとしているなかで、小沢代表が「真の改革政党」の道を堅持すれば、自然と政権交代への道が開ける。目先の選挙戦術ではなく、日本の将来を目指した長期的な戦略を民主党に期待したい。(吾妻橋)

小沢氏の「山猫発言」を聞く限りにおいては、彼は、「もはや旬のすぎてしまった政治家」という印象を免れ得ないと感じるのは私だけであろうか?

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